東野圭吾さんが亡くなって、『さまよう刃』のことを思い出しました。
娘を強姦殺人で殺された父親が、法では裁ききれない加害者たちに自分の手で復讐へ向かっていく話です。
僕がこの物語を通して考えることは「法律は絶対じゃない」ということです。
法律は絶対じゃない
当然だけど、法律は人が作ったものです。「正しさとは何か」を決めている完全な存在ではありません。
法律はすべての人にとって平等でなければならないという性質上、誰にとっても味方にも敵にもなり得ます。
いじめによって人が亡くなった事件で、その加害者に対する判決に対して「甘すぎる」という意見が、ネットのコメント欄を埋め尽くしているのを目撃しました。裁判や法律に対する批判の洪水。それをたしなめる意見は少なく、ほぼ「そんな判決じゃ甘い」「日本の司法はおかしい」という意見ばかりでした。
それを見ていて「なんでそうなる?」という気持ちでした。
事情をよく知りもしない一般人がニュースだけ見て、なぜ自分がそこまで正しいと信じられるのかがまず不思議ですが、それは今回のテーマからは外れます。
今回言いたいのは、みんな法律を絶対視しすぎじゃないかということです。
僕としては、その判決が甘いか厳しいかではなく「法律ではそうなんだな」という感覚です。だから法律に対してどうこう思うというより、「いや、それが法律なんだよ。法律でできるのはそこまでなんだよ」という感覚なのです。
それ以上の罰を与えたいなら、法律に頼らず自分でやりなさい。ただ、それには自分も法を犯す覚悟が必要だし、償う覚悟が必要です。自分だけ無傷というわけにはいきませんよ。それでもそいつが許せないならやりなさい。『さまよう刃』みたいに。という感覚です。
断じて復讐や犯罪を推奨する意図はありません。ただ、ちょっと自分の思うようにならないからといって「法律が悪い」「裁判が悪い」と騒ぐ人々の姿を見てると、「いや、だから、法律ってそういうものじゃん。法律があるから、一方的に誰かの都合のいいようにならずに済むわけじゃん。それが法律の役割なんだよ」と思います。
それが自分にとって、都合の良い方にも悪い方にも作用する可能性はあるけど、自分の思うようにならないから「法律が悪い」というのは短絡的だなと感じます。
もちろん、法律の改正に関する提案とかはあっていいんだけど、「法律が甘すぎる」という怒りの意見には、「それは、法律に全部やってもらおうとしすぎだろう。法律は君の気持ちをスッキリさせるためにあるんじゃないんだよ」というのが僕の感想です。
もし、法律では裁ききれない悪人がいて、たとえ自分が不幸になったとしても本当に裁くべき悪だと思うなら法律に頼らず自分でやりなさいだし、もし、それが本当に多くに人の共感を呼ぶものなら、世間も味方に付いてくれて、刑も軽くなるかもしれません。それも含めて法律だし、人間なんじゃないかと思うんです。
赤穂浪士の話もそうですよね。人をいじめ、侮辱し続けた人間(吉良上野介)が、自分たちの命と引き換えにでも復讐を遂げようと覚悟をきめた四十七士によって討ち入られる話ですが、美談として愛されています。
それが正しいという話ではなく、そういう心の働きが人間にはある。法律なんて超えて、何かを成そうとすることだって人にはあるという話です。
だから、逆に「ひどいことをすれば、法律を超えたひどい復讐が自分に返ってくる可能性があるぞ。法律が守ってくれるなんて期待するなよ。法律が絶対じゃないことを忘れるな」と、『さまよう刃』はそんなメッセージを発しているような気がするのです。
「殺されたのが自分の家族でも同じことが言えるのか」
余談ですが、加害者の人権や立場について触れたコメントに対してよく見かけるのが「殺されたのが自分の家族でも同じことが言えるのか」というやつです。
その立場になったことがないからわからないけど、たぶん言えないでしょう。「言えないです」と言えば「ほら見ろ! 俺が正しいだろ」と鬼の首をとったように言ってきそうですが、全く正しくないです。
客観的な立場で判断しなければならないのに、一方的に被害者の立場に寄り添うことが正しいと信じている時点で正しくないのです。
だからそうならないために裁判があるし法律がある。
僕には客観的な立場に立たず、どちらかの立場で一方的にワーワー騒ぐ人たちより、彼らが間違っていると主張する法律の方がよほど客観的で正しいように思えます。
だからこの「同じことが言えるのか」に関しては無視でいいですね。
罰を与えたいという気持ちが薄い
さらに余談ですが、僕には人に罰を与えたいという気持ちがあまり強くありません。
昔、罪人に対してノコギリ引きの刑といって、その体を通行人がノコギリで傷つけていくみたいな罰があったといいます。
そういう話を聞いて、その人が超極悪人だとしても、僕にはできないなと思います。
あるいは石川五右衛門が釜茹でになったみたいな、あえて苦しむようなやり方で処刑が行われる例を聞きます。
僕の感想としては、罪人よりも、怒りにまかせてそんな残酷な処刑ができる人間の方がよほど怖いです。
そんなこともあってか「重い罰を与えろ!」という人々の気持ちがよく理解できず、「怖いなあ」と感じることが多いです。
それはもちろん僕の感受性なので、誰が正しいとか間違ってるとかの話ではないです。
実際そういう感情が、本当に身勝手で悪い人間の遺伝子を淘汰してきたであろうことも理解しています。
ただ、罰を与えるというのは、痛みや恐怖によって人を自分の思うように変えてしまおうということだと思いますが、それって、いじめとか悪人のやってることと同じじゃんというのは常々思ってます。
再犯の危険性のある人物を野放しにしては危険だというのはわかるので、捕まえて、閉じ込めておきましょうというのは理解できるのですが、それ以上のことをする必要あるのかなというのは疑問です。疑問というのは反対という意味ではなく、本当にわからないという意味です。
とにかく、そんな気持ちなので、コメント欄とかで「刑罰が甘すぎるぞ」「早く処刑しろ」みたいな声が多いと、「そうだそうだ」とはならず、ただただ怖いです。「なんなのこの雰囲気、僕みたいな考えの人いないの?」とさみしく、苦しくなります。
まあ、僕みたいな考えの人もたくさんいるけど、コメントに書き込まないだけなのかもしれません。下手に書き込んで、気が立っている人に攻撃されても面倒ですしね。
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