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「それで諦めてしまうなら最初からその程度だったということだ」みたいなのが嫌い

漫画などでよくありますが、主人公が何か困難に突き当たった時、その周囲のキャラクターが「これで潰れてしまうなら最初からその程度だったということだ」とか、「ここで諦めてしまうなら、その程度の熱意しかなかったということだ」みたいなセリフを言うことがありますよね。

あと、日常生活で何かを忘れてしまって、「なんだったかなあ?」となっているとき、「大事なことなら覚えてるはずだよ。忘れちゃうってことはその程度のことなんだよ」みたいなことを近くの人に言われたりすることあったりします。

この「『その程度だったということだ』構文」がなんか嫌なんです。

何が嫌なのか、ちょっと考えてみましょう。

わかんないじゃん!

まず、僕がこの構文を聞いた時、真っ先の思うのが「わかんないじゃん!」です。

漫画の主人公なら、どんな困難でも潰れたりはしませんが、現実では困難に対して諦めることもあるでしょう。

でも、もし、その困難をなんらかの方法で軽減したり、回避したりして、無事乗り越えられていたら、その後スイスイ成長してその分野で貴重な存在になっていたということもありえます。

適切な支援があれば大きく成長できる人材かもしれないのに、いきなり大きな壁が来たせいで熱意を失ったり、潰れてしまうもったいないケースが十分あり得る。

それに対して「それで諦めてしまうならその程度だったということだ」と突き放すのは、怠慢さや無責任さを感じずにいられません。

だって「わかんないじゃん!」

そこで諦めないように応援したら成功するかもしれないじゃん。熱意だってこれからもっと育つかもしれないじゃん。

本当に世の中何があるかわからないし、人の可能性って少しのことで運命が分かれてしまうような、微妙で繊細なものです。実力に大した差はないのに、成功する者しない者、明暗が分かれてしまうケースを僕たちはたくさん見てきているはずです。

ただの決めつけ

自分で言うのならまだわかるんです。

「思い出せなくて気持ち悪いなあ」「どうしても思い出せない」という時、そのもやもやを抱えたまま生活のはいろいろ支障が出る。だから「その程度のことだ」と自分に言い聞かせて、いったん別のことに意識を集中させる。これはわかる。

でも他人が言うのは違うなあと思うんです。

だって「わかんないじゃん!」

だって、本当にすごく大事なことかもしれないじゃないですか。

思い出せないことは、大きな成功を掴むための重要なアイデアの尻尾だったかもしれないし、大きな被害を未然に防ぐために必要なことだったかもしれない。

ちょっと無理してでも思い出したほうがいいことかもしれないじゃないですか。

「現場の指紋拭き取るの忘れてた!」「凶器処分するの忘れてた!」みたいな大事なことに対して、他人が勝手に「その程度のこと」と断定するのは失礼だなと思うんです。

つまり、「『その程度だったということだ』構文」は説得力はあるように見えるけど、ただの決めつけです。

諦める時便利だけど……

この構文のメリットは、諦めたいときに、そう思うことでスッキリ諦められるということでしょうか。

「ここで諦めるなら最初からその程度だったってことだ」というのは「いい人材に見えたけど、才能があるように見えたけど、最初から可能性はなかった」と思うことで諦めがつきやすくなる効果を狙っているということだと思います。

でも厳密には、実際には「わかんないじゃん!」が正解だと思います。最初から可能性がなかったかどうかなんて、誰にもわからないというのが真実だと思います。(というより、多くの場合可能性はあるんじゃないかと思います。低いかもしれないけど「ある」という場合がほとんどなんじゃないかと思います。絶対ではないので強く主張はしません)

うしろ髪を引く気持ちを断ち切るためにも「最初からその程度だった」と自分やまわりに言い聞かせるわけでしょう。そう考えることで「可能性があったのにもったいない」という気持ちを捨てて、きっぱり諦めつけましょうってことなんでしょう。

ここまで書いて、結論が見えてきました。

事実を捻じ曲げてはいけない

僕は仮にうしろ髪を引かれるとしても、「可能性はあるけど諦めた」が正しいなら、その正しい認識のまま諦めるべきだと思うんです。

忘れてしまったことが大事なことだったかどうかは「わからない」が正しいし、その人にはじめから見込みがなかったかどうかも「わからない」が正しい。ならば、その正しい認識のまま諦めるべきなのです。

「諦める」のがダメなのではなく、「諦める」ために事実を捻じ曲げることがダメなのです。

本当は可能性があるという事実をまっすぐ受け止めた上で、「(遺憾ながら)諦めた」とするべきなのです。

「可能性があったのにもったいない」という気持ちが辛いなら、その気持をそのまま手放せばいいし、手放せないなら向き合いながら生きればいいのです。

もし何か状況が変われば、復活できるかもしれません。「遺憾ながら」という気持ちがあれば、それが火種になるかもしれません。「はじめから可能性がなかった」という諦め方をしてしまうと、その火種も消えてしまいます。

いや、火種を残すうんぬんはそんなに重要じゃないです。

とにかく事実を捻じ曲げないことが大事だと言いたいのです。

事実は強いです。どれだけギャーギャー言ってるヤツも、事実を示すことで黙らせることができたりします。その事実を無視して生きるなんて、僕からしたらありえません。

まとめ

「『その程度だったということだ』構文」は本来「わからない」ことを決めつけているという点で正しくない見方であると言えます。

正しい見方=事実は、自分に不都合な感情を生むものだとしても、勝手に捻じ曲げてはいけないと考えます。

「『その程度だったということだ』構文」は、不都合な感情を取り除き、きっぱりと諦めを付ける方法として有用であるとも言えますが、事実を捻じ曲げるものである以上、僕には受け入れ難いものです。

「事実よりも、感情を優先すべきだ。有用ならいいではないか」という主張もあるかもしれません。それも一つの正しさかもしれません。

それに関しては完璧に否定する理屈は存在しません。好みの問題としか言えない領域です。

なので「『その程度だったということだ』構文」に対して「間違っている」という主張はしません(気持ち的にはそう主張したいですが、論理的にできません)。だから「嫌い」なのです。