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アドラーの「人の悩みはすべて対人関係の悩みである」に納得できない

前回「マズローの欲求5段階説に納得できない」という話をしました。

マズローの欲求5段階説に納得できない

それで思い出したのが、タイトルの通りアドラーの「人の悩みはすべて対人関係の悩みである」に納得できないという話です。

言うならこのタイミングだなと思ったので、今回はその話をします。

アドラーと僕

まず、断っておきたいのは、僕はアドラー心理学を全体で見た時、そんなに否定的な立場ではないということです。面白い考え方だなと思います。

ただ「人の悩みはすべて対人関係の悩みである」という、そのことに対しては納得してないですということです。

僕はアドラーのことをあまり深く学んでいませんから、この言葉の真意はよくわかっていません。ただ、解説などを読んで理解した範囲では納得できていないという感じです。

ただ、この言葉に「ホントそうだよね」と簡単に乗っかってしまう人もたくさんいそうだなあということには少し懸念があります。

僕がアドラー心理学を知ったのは『嫌われる勇気』という本でした。なんか流行ってるし、放っておくにはあまりに気になるので読んでみようということで手に取りました。

率直な感想として「特に役立つ情報はないな」というところでした。この本がブームになった頃には、僕の思想はすでにかなり完成していました。だから「アドラーって人、僕と考え方が結構似てるな」と思っただけで大きな感動とかはありませんでした。

もっとも、大学時代に心理学関係の本を読み漁っていたので、アドラーのものと知らずその考え方を自分の中にインストールしていただけなのかもしれません。特にアドラー心理学で言うところの「課題の分離」みたいな考え方を、いつどこで学んだか覚えていませんが、悩まず生きるための重要な知恵として大切にしています。その最初の出どころがアドラーだったというなら、それは感謝の極みです。

アドラーの考え方は僕と似ていて好きな部分も多いけど、「人の悩みはすべて対人関係の悩みである」には納得できないし、なんか尖ったことをいろいろ言ってて「どうなんだ、それ」と思うものも多いので、アドラーに対しては好き嫌い混ざったような複雑な印象を持っています。

「健康の悩み」は対人関係の悩み?

では、なぜ「人の悩みはすべて対人関係の悩みである」に納得できないのか話していきます。

今、僕は対人関係では悩んでいません。僕が主に抱く悩みは「健康のこと」です。これは僕の中で「対人関係の悩み」だとは思っていません。

健康の悩みはつまり、体力がなくて疲れやすかったり、気分が沈みがちだったり、やる気が湧いてこなかったり、そういうことが多いところです。やりたいことがいろいろあるのに、このままではその多くができないまま人生のタイムリミットが来てしまうのではないかと不安になります。

「人の悩みはすべて対人関係の悩みである」というなら、これらは「対人関係の悩み」であるということになりますが、少なくとも本人にその自覚はありません。

また、日々「野菜炒め定食にしようか、焼き魚定食にしようか」といったことでも悩みますが、これも人間関係の悩みなのでしょうか?

「対人関係につながっている」から?

「いや、健康の悩みだってなんだって、結局は対人関係につながっているんだよ」という意見があるかもしれません。

でもそれって、ズルくないですか? つながっているというなら、逆から見てもつながっているんですから、片側から見た方だけを真実みたいに言うのは変だと思うんです。

「対人関係の悩みは結局、健康の悩みにつながっている」と言っても正しいことになります。

「いや、悩みには必ず、他者の存在が影響しているんだ」と主張するかもしれません。

仮にそうだとして、他者が関係しているからといって、それが「対人関係の悩み」ということにはならないんじゃないかと思うのです。

「家の壁が薄くて外の音がうるさい」ことで悩んでいる場合、壁を作ったのは他者だから他者が関係しているけど、一般的に対人関係の悩みとは言わないですよね。

つまり、すべての悩みに他者の存在をこじつけることはできるけど、それを「対人関係の悩み」というのは無理があると思うんです。

「対人関係の悩み」以外は悩みのうちに入らないから?

「いや、『悩み』と呼べるような大きな悩みは『対人関係の悩み』であって、『何を食べるか』みたいなのは『悩み』のうちに入らないんだよ」という意見があるかもしれません。

でも、それは「『対人関係の悩み』のことだけを『悩み』と呼びましょう」と言っているだけで、ただの言葉の使い方の問題です。言葉をどう定義するかという話です。

「『対人関係の悩み』以外は『悩み』に入らない」というなら、「悩み」=「対人関係の悩み」という等式が成立します。この等式を「人の悩みはすべて対人関係の悩みである」に当てはめると、「人の悩みはすべて悩みである」もしくは「人の対人関係の悩みはすべて対人関係の悩みである」という同語反復になるだけで、何かの真理を表しているわけではありません。

「今日何を食べるか」みたいなことも「悩み」と呼ばれている以上、多くの人にとって「悩み」です。「そんなのは悩みに入らない」と言われても「じゃあこの気持ちは何? なんて言えばいいの?」となって悩みが生じるだけです。

僕の考え

じゃあ、僕の考えはどうなのか。

僕の考えでは悩みは生存が脅かされる状態を放置しないための本能だと思っています。自己保存(生存や子孫を残すこと)に関係しているから生じるものだと……。だから、対人関係と関係なくても、生存を脅かされる状態なら生じうるものだと思っています。

なのでアドラーの「人の悩みはすべて対人関係の悩みである」は普通に違うと思うし、無理があると思っています。

ただ、「すべて」という言い方さえしなければ……、「ほとんどが」とかに変えれば、僕も同意できたと思います。

アドラーも目立ちたいだろうし、インパクトのある言い方で人の気を引こうとしたのかな。あえて引っかかるような言い方をして、興味を持ってもらって話を聞いてもらおうという策が「人の悩みはすべて対人関係の悩みである」なのかも。そう考えるのが一番納得できる落とし所ではあります。