ライフログをやらないと決めている

最近は、僕が人生において「やらないこと」の話をしていますが、今回はライフログをやらないぞという話です。

「麻雀・ゴルフ・ネットゲーム」をやらないと言いましたが、それと同様、嫌いだからやりたくないという話ではなく、魅力があるからこそ、そこにとりつかれないように、自分を戒める意味で「やらない」と宣言しようと思います。

ライフログとは

時代も進歩したもので、日々のあらゆる活動を記録、データとして残しやすくなりました。

スマートフォンがあれば、写真も簡単に撮れます。GPSで位置情報も取得できます。

そういうのを利用して、どこにいて何をしたか、何を買った、何を食べたといったことも、簡単に記録できます。

スマートウォッチのようなものと連動させて、毎日の心拍数や歩数、睡眠時間まで記録できるようになりました。

ってなわけで、記録できるものは、どんどん記録を残しておこうというムーブメントがやってきたわけです。それがライフログ。

それは、例えば、防犯カメラのように、犯行が起こったときだけを狙って記録することは難しいので、ずっと記録しておく。そうしたら、いざ事件があった時、それが証拠になる、助けになるというような発想です。

ライフログをやらない

いい考えなのはわかるのですが、そこには乗っからないことにしました。

記録を残すこと自体が負担

理由としては、負担が減っているとはいえ、記録することには、ある程度そこに意識を向けなければならず、それが負担だからです。

きちんと記録が残せているか、いつも管理、確認しなければならない。機材の調子を見て、壊れたら買い換えないといけない。

常に記録を続けることの時間的、金銭的、精神的コストと、それによって得られる利益。その利益と不利益を秤にかけたとき、不利益の方が大きくなってしまう気がしてならないからです。

そこまでして、残す必要があるのか。無駄なことをやっているのではないか、その間に新しい言葉を一つ覚えられ、その方が役に立つのではないかという気持ちの方が強くなってしまうのです。

ということで、「目的なく記録を残さない」「残すために残すということをしない」というのを自分の中でルールにしました。

「残っていないより残っている方がいいから」「残しておけば何かの役に立つかもしれないから」くらいの理由ならログを残しません。

目的があれば残す

「目的なく記録を残さない」逆に言えば、何かしらの目的があれば残していきます。

意識的に記録を残しているものは、小説やマンガ、映画、アニメ、ドラマなど作品に触れたときです。どんなことに感動したかなど、記録を見てあとで思い出すと、自分の執筆の参考になるからです。

また、日々の気付いたことなど、ネタになりそうなことは記録しています。「ネタにする」という目的があるからやっています。

それ以外で、記録を残すなら、なぜ残すのか、目的と期間を決めてデータを集め、そのデータをどう使うのかまで考えた上で収集します。

「ナカイユウヒの世界展」のブログで、冷蔵庫を最新の物に変えたことで、どのくらい電気代が安くなったかを、1年くらい記録していました。省エネってすごいなあと思いました。初期費用がかかっても、省エネの物を選んだ方がいいことを強く実感しました。

自然と残ってしまうように

デジタルな時代なので、普通にパソコンやスマホを使って暮らしていると、自然と記録は残っていくものです。

「残すために残す」ことはしませんが、もちろん自然と残ってしまうものを、あえて消すようなこともしません。

ということは、逆に、なるべく、記録がうまく残るものを選ぶようにしようとは思います。

アナログとデジタルがあれば、大抵デジタルを選びます。

例えば、Googleカレンダーでスケジュール管理をしていると、過去にこなしたスケジュールが記録として残ります。紙の手帳だと1年で交換だからそうもいきませんが、デジタルだと、何年前の記録でもその場で見ることができます。

Gメールや、Amazonの購入履歴を見るといつ何を買ったかわかるので、大抵の物(食料品や生活雑貨以外)は、店で買うよりネットで買うようにしてます。

普通に使っていると自然と勝手に記録が残っていくものが理想です。ありがたいです。

やれライフログだと躍起にならず、自然と残った情報だけでやっていく。それだけでも、かなりの量の情報が蓄積されるはずです。わざわざライフロがなくてもそれで十分でしょう。

残ってなくてもまず困らない

記録を残さなくても、これまでの人類は普通に生きてきたわけですし、大抵のことは、「忘れちゃった、ははは」でなんとかなります。

むしろ、そのくらいの方が、おおらかで幸せそうに見えます。

余談ですが、僕は、写真を撮る枚数が人と比べて圧倒的に少ないです。

それが普通だと思っています。周りの人を見ていると、写真撮りたがりが多くて驚きます。そんなにやたら写真を撮るのやめればいいのにと思います。

そして、自分が写っている写真も極めて少ないです。ここ20年で、自分の写っている写真が数枚しかありません。友達がいないから、出かけることもなく、そういう機会がないのです。

写真が少ないぶん、思い出に浸ることができないのですが、思い出に浸っていると仕事ができなくなるので、むしろいいことだと思っています。

写真を見ることに時間を奪われなくて済むので、写真がなくてよかったとは思いますが、逆に、写真がなくて困ったという経験は全くありません。

つまり、「これは残さなきゃ」と積極的に残しているものでさえ、実際には、なくても何の問題もないものですから、「残しておいて損はない」くらいの動機で残すライフログデータなど、なおさら必要性が薄く、そのために、パソコンやスマホを細かく操作するのは面倒くさ過ぎるという感覚なのです。

まとめ。自分の記憶と直観を信じたい

来るかどうかわからない「いざという時」のために、記録を残し続けるのは、常に非常用バッグを持って歩くようなもの。

普段歩くときは、ちょっとでも軽くした方が歩きやすいじゃないですか。人生全体で見ると、その蓄積は結構大きいんじゃないかと思うのです。

過去を背負って歩くことをやめて、身軽に生きていきたいです。少しでも身軽に生きる方が、健康に暮らせる気がします。

それはあくまで僕がそういう道を選ぶということで、それが正しいかどうかはわかりません。ライフログ愛好者に向かって、自分の方が正しいと主張することはできません。賭けみたいなものですから。

「非常用バッグを持っていてよかった」という人の横で「持っていればよかった」と泣くケースも無いとは言い切れない。

でも、僕は自分を信じてあげたいのです。

毎日、歩数計を見なくても、最近運動不足かどうかはわかるはずだと。

わざわざ記録に残さなくても、大事なことに気付ける。

わざわざ記録に残さなくても、ベストの答えを導き出せる。

データに頼らなくても、自分の記憶と直観が大事なことを知っている。

データを取るのは、そのあとからそれを実証するためで遅くない。

お前は非常袋をいつも持ち歩かなくても、その時の機転で何とかできるヤツだ!

だからライフログは取らないぞ! ってなわけです。

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