noteで『三刀流修行~中井佑陽インタビュー~』『側溝のおいしい水』を連載中

HSPという呪い

タイトルを見て、「そうですよね。HSPに生まれると生きにくいですものね」といった話を期待されるかもしれませんが、そういう話がしたいわけではありません。

むしろ、HSPということを知ってしまったがゆえにかかってしまう呪いについて、伝えておきたいのです。

個人的意見ではありますが、HSPの取り扱い注意書みたいなものとして書いていきます。

HSPとは

最近HSPという概念もだいぶ広まってきました。

HSPはHighly Sensitive Person(ハイリー・センシティブ・パーソン)の略語で、簡単に言うと、とても感受性が強い人のことです。刺激に対してすごく敏感で、高感度のアンテナを巡らせているような繊細な人というイメージです。

エレイン・N・アーロンさんという方が『ささいなことにもすぐに「動揺」してしまうあなたへ』という本の中で提唱したもので、僕も大学生の頃その本を読みました(だいぶ前の本で、今は新しいのもいろいろ出てます)。

僕はまさに典型的なHSPなんですが、大学生当時の僕は飲み会に行っても、いつも一人で静かにご飯だけ食べて帰るような感じでしたので、自分がHSPであることを知って、ものすごく楽になりました。悩みの海で溺れているところを「落ち着いて! 大丈夫。そこ、足つくよ」と教えてもらったような気持ちでした。今後の人生を考える上で、大きな指針にもなりました。

HSPという呪い

いつしか自分の悩みを完全に克服した僕は、人間関係に悩む人に向けて本を書きました。『人づきあいが苦手な僕たちの逆襲』です。

その本で、人づきあいの悩みを克服するための考え方を伝えました。しかし、人間関係での悩みの解決に大いに役立った経験があるにも関わらず、その本ではHSPについては書きませんでした。書くべきだろうかと迷いましたが、迷った末に書かないことを選択しました。

「HSPの呪い」を僕はよく知っていたからです。

HSPの呪いとは、HSPという概念を知ってから、HSPを過度に意識してしまう症状のことです。僕以外の人にも表れる症状かどうかわかりませんが、僕に起こることは他の人にも起こり得るでしょう。

例えば、以下のようなことは呪いの症状です。

  • 自分はHSPだから勇気を出すのが困難なのな仕方ないと考えてしまう
  • 自分はHSPだから疲れやすく、人一倍多く休む必要があると考えてしまう
  • 「あいつはHSPじゃないから俺の気持ちはわからないだろう」と考えてしまう
  • 「あのミュージシャンもHSPだろうか?」「あの人はどうだろう?」などと考えてしまう
  • 自分は特別な存在だという意識がHSPによって担保されたような気になる
  • 自分はHSPだと周りに言いふらし、理解を求める

これらの思考は、HSPに囚われすぎなのです。「私はそれが苦手だが、HSPだから仕方ない」「HSPじゃない人にはわからないだろう」みたいな思考になってしまったら、かなり深刻な呪いにかかっています。

こういった思考が多くなると、やりたいこと・やるべきことをHSPを言い訳にしてやらなくなる、あるいはHSPを免罪符にして、やることから逃げてしまう恐れが出てきます。その思考回路は、自分を幸せにするものではないと思うのです。

HSPは通り過ぎるべき通過点である

別に苦手なことがあったり、逃げたいことがあるのはいいのです。そう感じる自分を責める必要はありません。でもそれをHSPのせいにしてはいけないのです。HSPに理由を求めるべきではないのです。

HSPだろうと、なかろうと、あなたはあなたでいいのです。「私はHSPだから、それは苦手だ」ではなく「私は、それは苦手だ」でいいのです。「私はHSPだから疲れやすい」ではなく、「私は疲れやすい」と言えばいいのです。

逆も同じです。「私はHSPだから、この分野が得意だ」ではなく、「私はこの分野が得意だ」……。

自分を理解する上でHSPを理解することは有効です。感じ方には個人差がある。だから自分と同じように相手が感じるわけではない。それを知っておくことで、必ずしも自分に置き換えて考える必要がないことを知り、優しさや、共感能力を悪用されない知恵を身につけることにつながります。

本などで、HSPについて知ったら、しばらくの間はそれについてじっくり考えたくなるでしょう。過去を思い返したりしながら、一つ一つの出来事をHSPという視点で捉え直したりしつつ、自分とじっくり向き合えばいいと思います。それは、とても大切なことだと思います。何が大切かというのは、本人にしか分からないことだけれど、自己と他者ということに関して大きくイメージが変わる、重要な儀式となるでしょう。

そこまではいい。でも、それが終わったら、それはそこに置いて、先に進みましょう。いつまでも持って歩くべきものではありません。

HSPという概念を通して、自分で自分を理解し、過去や今後のことを考えたら、それでおしまいにしましょう。HSPは人生において、通り過ぎるべき通過点なのです。他人に自分をわからせるための道具ではないのです。

例えば、自分がHSPだと主張して、周囲にわかってもらおうとすることはおすすめできません。それは「私はHSPだから周りから気遣われ、大切にされるべき存在なんです」と言っているようで、言われた方も接し方に困ります。「それを勉強しろってか?」と迷惑がられるかもしれません。

「私はHSPだから」などの前置きは不要です。「私は人混みが苦手です」「うるさい場所は苦手です」と普通に言えばいいのです。そして、だからどうしたいのか、どうしてほしいのか伝えればいいのです。HSPとしてのあなたではなく、あなたそのものを知ってもらいましょう。HSPという権威にすがらなくても、受け入れてくれる人はいるはずです。

自分が特別な存在であることを認めてもらいたいなら、「HSPであるから」ではなく、きちんと実力をもって証明するべきです。

HSPであっても、そうでなくても、人は自由です。どんな感じ方をしてもいいし、やりたいことをやる権利があります。HSPに頼らず、普通にそれを主張すればいいのです。

(まあ、僕も自分がHSPだと言ってますけど、必要があれば言いますし、隠すことでもないんで……)

HSPはラベルである

前に『偏見を持たない人かっこいい』の中で「日本人は……」みたいな言い方が嫌いという話をしました。

偏見を持たない人かっこいい

「日本人」というのはただのラベルです。日本人であっても、人は一人一人違います。「HSP」も同じです。「HSP」もラベルに過ぎず、ラベルで物事を判断することは、強い言い方をすると差別的行為です。「日本人だから」「アメリカ人だから」「男だから」「女だから」そういうラベルで一くくりにして人を決めつけるような言動にたくさんの人が傷付いていることを僕たちは知っているはずです。

(差別と言えば「IQ」とか「EQ」みたいなのも差別的だからイヤだなあって話をしたことがありました)

「EQ」とか「コミュ力」みたいな概念が嫌い

拙著『人づきあいが苦手な僕たちの逆襲』では、「そのものを見る」ことを強調しています。「ラベル」ではなく、きちんと「そのもの」を見るようにしましょうと繰り返し伝えました。

僕には「日本人」というラベルも「HSP」というラベルも貼ることができますが、それを剥がしても、僕は僕です。だったら最初から、ラベルで見るようなことをせず、僕そのものを見ればいいのです。

「そのものを見て、自分にできる最善を尽くす」が『人づきあいが苦手な僕たちの逆襲』での僕の主張でした。「そのものを見て、自分にできる最善を尽くす」ということは、人種・性別・年齢・性格・気質その他あらゆる要因に左右されることなく有効なものです。

HSPの概念を持ち出さなくても、知らなくても、そのものを見て、自分にできる最善を尽くすことはできるはず。それどころか、「そのものを見て最善を尽くす」を遂行するためには、HSPを意識することは邪魔にさえなります。そう思って、あえて本で伝えることをやめたのです。

そもそも「HSP」に正しいという保証はありません。ラベルという意味では、例えば「血液型による性格診断」「エニアグラム」「クレッチマーの体型分類」に近いものだとも考えられます。根拠がないものでもないし、大いに示唆を与えてくれますが、複雑な性質を持つ人をそれで知った気になるのはあまりに安直です。

呪いにかかった僕にできること

以上、述べてきたことは、僕が頭で正しいと思う理屈です。自分に言い聞かせるように書きました。偉そうに。

実際の僕は逃げてばかりいます。主にコミュニケーションから。本当はできるのに……。人と接するのは相変わらず怖いです。「HSPなんだからしょうがないじゃん」とどこかで思っています。「他の奴とは違うんだよ」と思っています。HSPの自分に甘えています。それが正しくないことを知りながら……。

「ああ、呪いだなあ」と思います。この呪いは解けそうにありません。まあ、それも含めて自分なので、それはそれでいいかと思ってます。

その上で僕にできそうなことはまず、「自分がHSPだと周囲に主張しないこと」。あと「HSPであることに変に誇りを持たないこと」、具体的には誇りを感じるのであれば「必ず結果で示してみせる」と誓うこと。HSPは才能だと思いますが、結果が出なければ才能だけあっても意味がないですから……。

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