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伊集院さんがラジオで言ってた「ユニパス」について思ったこと

今回はちょっとタイムリーな話題。

群馬県では「不登校」を「ユニパス」と言い換えることにしたというニュースがありました。

ユニパスは「unique(ユニーク)」と「path(道)」を組み合わせた造語で、「それぞれの道」みたいな意味合いで、「不登校」のマイナスイメージを払拭する狙いがあるということです。僕はてっきり「Pass」かと思ってました。「俺、学校パス」のパスかなと。「生き方」みたいな意味の「path」だそうです。

伊集院さんのラジオ「深夜の馬鹿力」で、そのニュースを取り上げていましたが、実際に不登校だった伊集院さんには嫌悪感があったようで、自身が不登校だった頃にもし「不登校」を「ユニパス」と言い換えるという話を聞いても「はいはい俺は『ユニパス』ですよ」となるだけで、何の救いにもならないこと等を話していました。

確かに、哀れな人をより哀れに感じさせる「優しさの押しつけ」「優しさの暴力」のようなものを感じるかもしれません。

「順位を付けないようにみんなで一緒にゴールしましょう、みんな一等賞!」の運動会のような。「それをやられても足遅い人全然嬉しくないのが分からないの? ますますみじめになるのがわからないの?」と言いたくなるような、その感じがあるのかもしれません。

「『フリーター』って言葉が出てきた頃も、言い方を変えても定職に就かずにフラフラしている奴のイメージなんて変わらなかった」という話もしてました。

いいイメージにしようと作られた「フリーター」も悪いイメージになってるから、「ユニパス」も同じ末路を辿るんじゃないかってことです。

ただ、僕は「ユニパス」に関して、個人的には「悪くないなあ」と感じました。

学校行かなくてもよかった

僕は残念なことに、不登校ではありませんでした。

中学も、高校もちゃんと通い続けました。

それを振り返って思うんです。「べつに学校行かなくてもよかったな……」と。

もし、「学校に行かない」という選択肢がもっと選びやすくなっていたら、僕は学校に行かない道が選べたんじゃないかと思うんです。

中学の時はいじめられていたし、高校の時は友達いなかったし……。

まあ、あまりしゃべることもなく気の弱い日陰者でしたから、直接的ないじめとかじゃなくても、邪魔者扱いされたり、舌打ちされたり、あきれられたり……そういうことがいちいち心にこたえて、毎日死にそうな思いで学校に通ってました。

ストレスで胃がおかしくなって、食べたものが逆流するようになって、でもそのへんに吐くわけにも行かないから、汚い話だけど、口からもう一度飲み込んで……。

今思うと、よくそんな状態で学校行ってたな、すごい忍耐力だなと思います。

よく頑張ったなって思います。もちろん、傍から見ればただ学校に通ってただけなので、誰も褒めてくれたりしません。

中学の時の理科の授業で、隣の席の男から座席の幅を取り過ぎていることを非難され、冷たく「もっとあっち行ってくれる?」と言われたときのことを今でもよく思い出して、はらわたを煮えくり返らせています。「はらわたを煮えくり返らせたい時はこのことを思い出せば一発」という定番のエピソードです。

この時感じた怒りやみじめさを思う度、「どうすればよかったんだろう?」「この仕打ちを耐えて、我慢することしかできなかった当時の僕にどうアドバイスできるだろう?」と考えます。

「なんだよ、その言い方は!」とケンカに持ち込む。これは良くないです。相手は余計に躍起になって僕を打ちのめそうとするでしょう。自分の方が上なのだとわからせるためにあらゆる手を使ってくるでしょう。まあ、腕力で勝てないというのもあるけど、仮に互角以上だとしても激しく消耗するし、メリットはありません。

「そういう言い方やめようよ」と注意する。ケンカよりはマシですが、これもそれほど効果は得られないでしょう。「何なのお前、キモいんだけど」みたいなことを言い換えされて終わりになりそうです。結局ケンカかみじめの道は避けられなくなりそうです。

結局一番いいのは、そんな奴と関わらないことなのです。

こんな奴の隣で授業受けるの馬鹿馬鹿しいから「いいよ、好きに使って。俺もう帰るから」と言って、荷物をまとめてそのまま帰るというのが、ベストかもしれない。「なんだあいつ」みたいなことを言われるんだろうけど、別にそんな奴にどう思われても構わんし。

つまり、関わりたくないような人が学校にはいっぱいいて、それでも「行かなきゃいけない」と思い込んで、「今日は何も悪いことが起きませんように」と毎日祈りながら学校に通っていたわけです。

そんな中学、高校時代を思うと「そんな思いしてまで学校なんて行かなくていいよ」と言ってあげたくなるのです。

僕だったら、勉強が嫌いなわけじゃないし、学校に行かなくても一人で勉強できたと思うんです。

当時はマンガを描くのが好きだったから、学校に行かずマンガの勉強をするという生き方を選んでもよかったんじゃないかと思えるのです。そうしたら、今頃立派なマンガ家として活躍していたことでしょう。

もちろん、当時はそんな選択肢もなかったので、後悔しているというわけではありませんが……。

「結婚する人生としない人生、どっちが幸せか」と同じで、学校に行く行かない、どっちがいいかなんて両方選べない以上、わかり得ない話で、だからこそ、選択肢だけでもあってくれたら(それを選ばないという選択をするにしても)どれだけ楽だったろうと思うのです。

「ユニパス」で不登校になれない人が救われたらいい

ということで、「ユニパス」への名称変更が、学校が辛くて仕方ないけど、不登校になることができない人のために、ハードルを下げる働きをしてくれるなら、なかなかいいんじゃないかと思った次第です。すでに不登校の人のためというより、その予備軍みたいな人の背中を押すものになってほしいということです。

「今日は悪いことが起きませんように」と祈ってビクビクしながら学校に行くくらいなら「ユニパス」でいいと思います。

「俺、ユニパスで行くわ」と自分で決めることは、それによって得られる経験も大きいと思うんです。レールからは外れるけど、これからは言われたことをやるんじゃなくて、全部自分で考えてやっていこうということなら、まぶしいくらい立派だと思うし、応援したくなくなります。

まあ、実際にはそんなに綺麗な事例ばかりではないんでしょうけど、少なくとも昔の僕みたいな人がその決断に至れるなら、それだけでも十分価値はあるような気がします。

「不登校」だと解決すべき問題だけど、「ユニパス」なら問題ないですよという、少なくともそういう言語的イメージは得られるし、実際そうだと思います。

学校行かなくても、それが問題だというイメージは僕にはありません。問題があるとしたら、それを問題だと感じている人がいることくらいです。その人達が勝手なことをわめいて、差別的な見方を広めてることくらいです。

「自分はいいんだけど、世間がねえ」という意見も、「ごめん、君と話すと僕までいじめられるんだ」と同じくらい卑怯な言い方です。「世間って誰だよ、お前だろ」って感じです。お前が主犯だよと。世間なんていう、いもしない人じゃなくて、目の前の人を大切にしなさいよと思います。

「学校行くべき派」の人は「学校行かないと社会性が身につかない」「友達もできない」みたいなことを言いそうですが、僕は学校に通ったのに社会性もコミュ力も身につきませんでしたからね。友達もできなかったし。どうせ身につかないんだったら学校行かない方がよかったなと思うわけで……。無駄に苦しかっただけ、無駄にトラウマ作っただけでしたから。ま、それは結果論ですけど。

僕が社会性を身につけたとしたら、バイトの方が大きかったかな……。とにかく、学校に通うことは社会性を身につけるための絶対条件ではないと思うし、それこそ、それにもいろんな道があるから学校に執着する必要はないってことは言いたいです。

結論。「ユニパス」いいと思うよ。

「ユニパス」によって「是が非でも学校に行くべき」ではなく「別の道もある」というイメージが広まって少しでも学校に行かないという選択がしやすくなるなら、いいことです。

もちろん、呼び方だけ変えればいいということじゃなくて、学校に行かない選択をしたらどうなるのか、「自宅で勉強するならこういう方法がありますよ」「こういうフリースクールとか支援施設がありますよ」「通信制の高校に移るならこういうところがありますよ」みたいに具体的にイメージできるような資料を学校で配ったり、「学校行かなくても、それはそれでなんとかなるよ」という知恵や情報を伝えることもやってほしくて、そういう一連の活動の旗印として「ユニパス」が浸透してくれたらいいんじゃないかなと。

以上がこのニュースの率直な感想です。

あと、会社に行くのが辛い社会人の人にも「フリーター」は結構おすすめですよ。僕、就職してないっすけど、案外なんとかなってるんで、辛いなら仕事辞めて「大人のユニパス」決めても案外なんとかなるんじゃないですかね。